6月20日(土)に倉敷セントインで玉島文化塾が開かれ、本校から31名(生徒会、ソフトテニス部、書道部、茶道部、放送部などの有志生徒27名と教員4名)が参加しました。
最初、延享元年伊勢の亀山から移封された城主板倉勝澄が武士たちに習わせ、城中の酒宴で踊ったことにはじまったといわれる備中松山踊りの一つと言われる「仕組踊り」が行われ、その後西爽亭の柚木爽一郎氏の講演がありました。講演のテーマは「桃から生まれた桃太郎 海から生まれた玉島みなと」。古い絵地図や空中写真がふんだんに使って、江戸時代以降の玉島の歴史が説明されました。
<話を聞いてわかったこと>
・玉島は干拓によって連島や乙島などの島が陸続きとなっていること。
・高梁川が分流していた。東側は天井川になっていたので、洪水の被害が大きく、西側だけに改修されたこと
・建設当時東洋一と言われた霞橋の名前の由来
・旧国道のルートとそこをバスが走っていたこと
・長尾に位置するのに玉島という駅名がついたこと
・かつては市街地から玉島駅まで一直線の道路があったこと などなど
知らなかったことがたくさん紹介されました。ちなみに昭和12年の「玉島要覧」の地図が参加者には配られましたが、玉島高校は「玉島女学校」として示されていました。